ひねくれ社長のたわ言

ひねくれ社長のたわ言

会長 竹内 修

私は信じる「真面目すぎる者、不真面目者の如し」 私は信じる「賢すぎる者、馬鹿者の如し」 私は信じる「素直すぎる者、ひねくれ者の如し」

連載エッセイ <その08> 

「異文化」について考える

8.異文化について考える 
 ここで述べる文化とは、文化的生活、文化国家というような使いをされる「文化」の意味ではない。 
先人たちから引き継いでいるもの、考え方、風俗、習慣、価値観、倫理観、美意識等である。 
この中で、考え方、倫理感(この「感」の方が適当なような”感じ”がする)、価値感、美意識は曲せ者である。 
これらは当事者たちにとっては、疑念のない当然の事であり、あまねく世界の人々に受け入れられるものであり、または受け入れるべきであると思い込んでいる。 否、思い込んでいることさえ意識の上に昇らない。 
時として、この思い込みに疑問を差しはさむ人が現れると、「常識だ、世の中が分かっていない」、「大人になっていない、尻が青い」、 「きっと裏があるはずだ」、等々非難の嵐となり、激しい対立を生む。 
世界にあまねく普遍的な正義であると信じているものに対立する人は、人類共通の敵であり、「天に変わって不義を打つ」となって当然だ。 
こんな場合、議論を始めても、結論が自分の思い込みに抵触しそうになれば、それまでの論理過程など投げ打って「屁理屈だ」で片付けてしまう。 
屁理屈をある辞書でひくと、「自分勝手な理屈」となっていたが、議論の相手を屁理屈だと決めつけるは、まさに当人の勝手であり、 自分勝手に、相手の理屈を「自分勝手な理屈」と決めつける訳だから、”屁・屁理屈”となる。 
これこそ、模範的な屁理屈なのだろう。 
でも、どこが間違っていますか。 

ここで、いくつかの思い込みと思えるものの例を挙げて見よう。 

*話し合えば分かる。 
 私は、「話し合えばわかる事もある」が正解だと思っている。 
まず、わかるという意味がよく分からない。わかると表現されるものは、少なくとも、「納得した」という場合と、論理過程には異義はないが、 納得しない、即ち「話は分かりましたが、賛同するとは言っていません」という場合もある。 
従って、どちらの場合であるかを確認しておく必要がある。 
この手続きを省略すると後々、相互不信の原因となる。 
さらに、何が分かり合えたのか主語がないのでこれまた分からない。 
また、「無限の時間をかけることが出来るのなら」という隠れた条件も付いていることに気付いていない。 議論を進めていく上では、双方に共通の前提が必要だが、この確認に膨大な時間を必要とする場合もある。 
 例えば一方がマクロ経済分析の指標を共通の理解として話を進めようとしている場合、 もう一方が、マクロ経済分析を知らなければ、経済指標の話を延々と続け、「分かってもらえなければならない」。 
しかしこれは不可能に近い、なぜなら大学でマクロ経済分析の単位をとるに必要な時間を考えてみれば明らかだ。 
これが自然科学系の話、例えば「統一場の理論」ともなると、話し合ってわかるはずもない。 
こういう話をすると、「それは極端ですよ」となるのが普通である。 
しかし、ひねくれ者としては、どのようにして「極端」と、「極端でない」の線引きをするのかを尋ねたくなるが、返ってくる答えは決まっている。 「常識」、「当たり前」、「屁理屈」である。 
私の見るには、何が極端なのかは、まさに当人の思い込み、ないしは裁量である事に気が付いていない。 「極端論」は極端であっても対象が質的変化を伴わなければ、現象をはっきり浮かび上がらせる大きな利点がある。 従って「極端ダ」で相手を一蹴しようとするなら極端による質的変化を明らかにしなければならない。(量から質の変化) 
 また、話し合いには、暇潰しのほかに、相手を説得しようとして行われるものと、正しいと思える結論を捜そうとするものがある。 
「×××絶対反対」と唱え、論理がどうであろうと、自分の有利な結論しか認めようとしない「話し合い」がある。 しかしこのタイプの「話し合い」も正しい答えを得ようとする話し合いのスタイルをとるのでたちが悪い。 
絶対反対なら話し合うことさえも無駄である。 
最も、絶対反対は意気込みであるという言い方もあるが、冷静に答えを得ようとする行為である議論に、意気込みは極めて有害であると私は思い込んでいる。 

ここで、議論好きと言われるユダヤ人についての話を一つ引用しておく。 
 ユダヤ人がいかに大声で論じても、だれも、少しも思い詰めていないのである。議論とは何十という珍案、愚案を消すためにやっているのであって、 絶対に思い詰めた自案を「死すとも固守」するためでない事は各自自明のことである。ここに日本人と大きな差がある。(「創造性開発」 金野 正 著より) 
ユダヤ人の人口比でのノーベル賞受賞率は他の民族より一ケタ上なのはユダヤ人のこの性格が大きく貢献していると思う。 

*民主的 
 何事も民主的であるべきだ、という思い込みも一般的な思い込みだと思う。 
かって、故山本七平氏は、今の日本には「民主主義不敬論」があると言われていた。 
その主旨は、戦前は不敬罪という皇室を誹謗すると見られる意見は、ことの真偽、善悪とは関係なく、罰せられる法律があった。 
今は、同じように、民主的でないという一語で多くの貴重な意見が葬り去られている、という意味だ。 
民主主義とは極めて定義の難しい概念だと思う。 
まして、多数決そのものは民主主義ではないはずだ。 
多数決は正しいか否かを判定することには染まない。これは、三角形の内角の和は何度であるかを多数決で決めるわけにはいかないのと同じである。 
また、天動説が主流の時代に少数派のガリレオ・ガリレイは「それでも地球は回っている」と言った。 
自然科学と人文、社会科学とは違うという意見もあるが私は自然科学と人文、社会科学の明確な線引きは出来ないと思っている。 
こんな話もまた屁理屈と一蹴されるであろう。 
私は思う、どれ程多くの天才と「正義」が多数決によって葬られてきたことか。 
ただ、多くの人達の協力によって事を成し遂げようとする場合、多数決は有効な方法に違いない。 

*唯一の正しい答えが存在する。 
 正しいと思われる現象も、時間(時刻)的な配慮なくしては意味がない。 
太平洋戦争での敗北は多くの人達に日本の未来に深刻な不安を与えたが、理由はともあれ、敗戦の混乱期を除いて、経済的には輝かしい時代のスタートポイントとなった。 もし、太平洋戦争に勝利していたら私のようなヒネクレモノは命も危なかったに違いない。 
また、太平洋戦争の敗北は日清、日露戦争の勝利に一因があることも明らかだ。 
即ち、時間の事を考えなければ、勝利も敗北も同じように正解なのだ。 
まさに「人間万事塞翁が馬」という故事に思いを馳せなければならない。 
このほかに、「安全」、「やさしさ」、「思いやり」、「平等」、「進歩」など数え上げれば切りがない。多くの場合これらは×××神話と言われているものも多い。 
自然科学においても多くの思い込みがあった。 
例えば、時間の絶対性、平行線公準問題、シュレーデンガーとハイゼンベルグの論争等々科学の進歩は思い込み修正の歴史であった。 
もっとも思い込みがなければ、論争の基になる前提が無くなるのだから、致し方ない。 
ある哲学者は、思い込みがあるからこそ認識が出来るとも言っている。 
思い込みは視点であり、視点がなければ認識さえ出来ない。 
 私は、議論は双方の思い込みや、前提を確認する手段であると思い込んでいる。 
これは論理過程さえ正確に踏めば難しいことではない。 
しかし多くの場合、論理過程を正確に踏もうとする「静かな情熱」さえ持ち合わせないから、論理に問題があるのか、前提に問題があるのか見当も付かなくなり、 それは憎しみに変わってしまう。 
双方の前提が確認できれば、それなりに「ああそうか」と理解できる(賛同ではないにしても)事も多い。 

私は今回のテーマである「文化」とは単にそれぞれの思い込み、ないしは好き嫌いであると思い込んでいる。 
私は、相手の思い込みに理解を示せても、(但し、相手が自分勝手な思い込みだと気が付いてくれた場合に限る)自分の好き嫌いまでは、なかなか相手に一致させることはできない。 
 数年前、アメリカ人を平安神宮に案内したことがあったが、彼らに「美しい、これは日本の典型的な建物か」と聞かれたとき、 私は思わず、「これは日本様式ではない、中国様式だ」と吐き捨てるように言ってしまった。 
私は中国南部の朱と緑に彩られた寺院は好きになれない。やはり私は「わび」、「さび」に通ずる日本の寺社建築が好きだ。 
私は中国様式は毒々しく、美しくないと思っているが、中国人、アメリカ人には美しいと写っているのだろうし、その人口は我々日本人より遥かにマジョリティだ。 
考えてみれば、わび、さびを感じさせる神社仏閣も建築時にはドクドクしく彩られていたはずだ。 

また、「食文化」といわれるように、食事は文化の大きな部分だ。 
我々の多くは、蛇や犬を食べることには大きな抵抗がある。私のような激しい好き嫌いのある者にとっては殆ど不可能である。 
外国人と食事をすることは異文化にどのように対処するかを考える良い機会だ。 
私は、原則として相手に会わせたり、相手のご機嫌をとることはしない。 
自分の気持ちを裏切ってまで他人に媚びるな。 
(旧約聖書 シラ書4・22) 
しかし、蛇や犬を食べる外国人を嫌いにはならない。そういう我々だって牛や豚、鯨を食べているではないか。 食事のときに音を立てることを良しとする文化もあるし、食器や食事の音を下品とする文化もある。 
それはそれなりもっともらしい理由はつくが……。 
姿かたちを相手に合わせる場合も、我々は欧米文化とその他の文化では、口でどのように説明しようと、その心理状態は大きく異なっているようだ。 
やはり我々には欧米コンプレックスは染み付いている。 
私は、これも仕方ないことだが、その自覚は持っている積もりだ。 
これが宗教ともなるともっと深刻だ。 
宗教とは、一つの価値観を提示するもので、神や仏の存在は二義的なものであると考えている。 
最近の歴史家は、神仏を徹底的に排除する共産主義さえ一つの宗教と見なしている。 
 数年前トルコに旅行した時、あるモスクでイスラム教徒と一緒に礼拝に参加している日本人旅行者をみて非常に奇異に感じたことがあった。 
そして、なぜこんな事をするのか、私がイスラム教徒であればどう感じるのかを考えてみた。 
イスラム教徒であれば「あなた方はイスラム教徒ではない、我々の神は異教徒に拝んでもらうほど安っぽい神ではない」、 「それは我々の神を冒涜するものだ」、「我々の神を冒涜することは、我々を馬鹿にしている」となるのではないか。 
こんな場合は触らぬ神にたたりなしかな。 

ではなぜ信じてもいない神を拝むのだろうか。 
 私は若い頃、「ダメでモトモト」との想いで、道すがらの神社仏閣はもとより、お稲荷さん、お地蔵さんまで手を合わせていた頃があった。 
こんな”ふらち”な考えにもかかわらず、年長者は「若いのに、立派な心がけだ」と言ってもらい、おおいに信用と人気を博したものだ。 
私は何かにつけ、「信心することはよいことだ」という日本文化が根底にあると思っている。 

考えてみれば、我々は似たような場面にしばしば直面している。 
アメリカでは、集会の始めに星条旗に向かい、胸に手を当て、アメリカ国歌を斉唱する事も多いが、我々日本人は、どう対処すればよいのか、 ちょっとした戸惑いを感じるのが普通であろう。 
同じような戸惑いは教会の結婚式でもおこる。 
私もキリスト教信者ではないが、幸い、プロテスタントにもカトリックにも「心得」がある(信じている訳ではない)ので、賛美歌(聖歌)も聖書朗読もその気にになってしまう。 
そして、葬式の時には、仏教徒でもないのに、数珠を持って手を合わせ、なんの抵抗もない。 
相手の宗教に、心はともかく形は合わすのが礼儀と心得ているのだろう。 
私も矛盾だらけですナー。(改めて自覚) 
私は、「文化」とは「思い込み」と「好き嫌い」と考えて大きな間違いはないと考えている。 
問題はこのような、自分と違った文化を持っている人達と仕事をするとき深刻な問題が生じる。 
事務的な処理や単なる肉体労働では問題は少ないが、複雑な思考や手順、予測が必要なときには文化の違いは重大になる。 
コミュニケーションとは双方が極めて慎重に言葉を選び、自己の内面を見つめ定義と適応範囲に思いを巡らせ、現象、推測、期待を峻別しながら進めない限り、 ミスコミュニケーションの山を築いてしまう。 
にもかかわらず、多くの人達はコミュニケーションをとることは嘘がなければ、難しいことではないと思い込んでいる。 
その理由はただ一つ、今まで”相手に非が無い限り”私は長年うまくやってこれたと思い込んでいる事だろう。 
相手もまたそう思い込んでいる事に想いを馳せてみよう。 
この思い込みのために、人類は、存在しない恐怖の幻影に怯え、不信感を募らせ、憎しみ合い、そしてどれほどの不必要な争いや戦争を繰り返してきたことか。 
否、この瞬間も小は、友達、夫婦、恋人、親子、上司と部下から大は企業どうし、地域、国と数限りない不必要な争いが繰り返されている。 ………ああ、もったいないことだ。「世渡り屋」を目指している私がいつの間にか「世直し屋」の雰囲気になってきているゾ。 

ここで芥川龍之介の言葉をもじって、 
   言葉は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。 
   重大に扱わなければ危険である。(芥川は言葉の部分を人生と書いている) 
もう一つの私の好きな言葉。 
   「始めに言葉ありき。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。 
   この言葉は、始めに神と共にあった」(新約聖書 ヨハネによる福音書1ー1) 

思い込み、好悪、言葉の不完全さの外に、定義と適応範囲の吟味にも思いを巡らさず、その上、いい加減な論理で相手を納得させようとするのは、 相手の都合の良い結論を提示する以外はないと思っている。ここで、定義、適応範囲、論理がはっきりしていれば、お互いの好悪や思い込みは明らかになってくる。 
そして、好悪は致し方ないが、思い込みは”気付き”によって修正されることもある。ここに屁理屈の意味があると思っている(価値観と人格は別)。 
好悪は好悪として理解し(同調ではない)、好悪を相手の人格の指標にしなければ、多くの場合、問題は少ない。 
即ち、「犬を食べるなんてとんでもない奴だ、人の風上にもおけない」と思ってしまうが、「そういう私も鯨を食べているではないか」ということに”気付け”ば、 怒りや憎しみは、”同じこの世を生きるもの”として連帯を感じさせてくれる。 
また、思い込みも好悪や自分の都合から出るものが殆どであることにお互いが気付けば、チームプレーもずっと楽だ。 
この域に達するために、我々に出来ることは、「屁理屈」と言われる、定義、適応範囲、論理をはっきりさせるしか方法がないと思う。 
だから、私は一生懸命屁理屈を言って、双方の「思い込み」と「好悪」を確認しあい、真にコミュニケーションを得ようとしている積もりなのだが、なかなかうまくいきませんなアー。 

ここで、再び芥川龍之介の「侏儒のことば」の一部を引用しておく。 
「我々の行為を決するものは善でもなければ悪でもない。唯我々の好悪である」「古来”正義の敵”という名は砲弾のように投げ交わされた。 しかし修辞につりこまれなければ、どちらが本当の”正義の敵”だか、滅多に判然したためしはない」 
 努力してもコミュニケーションが得られない場合も、私は相手に敵意を持つことは殆どない。 
冷たいようだが、「ああそう、仕方がない」、「どうぞ御自由に、お互い信じる道を歩もう」、「あなたに幸いあれ、邪魔はしないよ」という感じである。 
平成天皇の即位式の最後は型通り万歳三唱で終わったが、司会者は外国の参列者に配慮したのだろう「万歳三唱は各自、御自由に」と言っていたのを思い出す。 
文化の違いから、人格にまで疑問を抱き、自覚のない激しい敵意と憎しみが、”正義の仮面”をつけて現れると泥仕合になってしまう。 
思えば歴史上の悲劇は、自分達の文化ないしは思い込みを”唯一”の正義と思いこみ、「天に変わって成敗してくれん」と気色ばんでしまう事から生まれている。 「タワ言7」でも書いたが、いま日本はアメリカからグローバルスタンダードを「押しつけられている」のではない。 
アメリカは「我々と取り引きしようと思うのなら、原則、我々の文化に合わせてください」、「嫌ならどうぞ御自由に」と言っているに過ぎない。 
「アメリカと貿易出来ないということは、日本に死ねと言うようなものだ」、「だから日本の商習慣は認めてくれ」は甘え以外の何物でもない。 (私は死んでしまう、私が死ねばあなたも困るでしょう、だからあなたの倫理観を捨てて、私の倫理観に合わせるべきだ、では倫理ではなく損得勘定となる) 
このように考えるのが、価値観の多様性を認めることであり、異文化を尊重することだと思う。 
決して、自分の価値観、倫理観まで捨て、形だけ合わせ、「思いやり」、「マナー」と言った言い訳で、安易に迎合すれば、相手は自分の文化に同意してくれたと想い、 後に誤解を招く原因となる。 
また、価値観、倫理観を異にするという理由だけで、敵意や憎しみを持ってはならないと思っている。 
私に、相手を説得するほどの絶対的な自信も技術もなく、且つ敵意や憎しみをも持たない様にしようと思えば、「どうぞ御自由に、幸運を祈る」しかないように思うのだが……。 
ここに価値観、文化の多様性を認めることは自立、自己責任の確立と表裏一体の関係となるのだ。 
ただ、ちょっと引っかかる言葉がある。 
「愛の反対は憎しみではなく、無関心だ」、「最大の復讐は路傍の石にすることだ」とも言われる。 
私には愛がないのかな。 
かく言う私も、書きながら改めて自身の強烈な「思い込み」を思い知らされた”タワ言”でした。 
ただ、私の場合は自分の思い込みの範囲を明確に自覚しようと意識していることが平均的な人より多いと思い込んでいる。 

どうも今日は寝付きが悪そう。 
でも、お休みなさい。 

   追伸
私は今、携帯電話のマナーに興味を持っています。 
携帯電話はごく最近実用化され、世界に広くいきわたりつつあるので、そのマナーも各国でいろいろに、作られつつあると思う。 
新しいものが発明され、それが多くの人に使われるようになると、マナーもそれに応じて発明されていくものだ。 
どのようなマナーが発明され、定着化するかはその文化、社会を考える上で、役立つとは言わないが、私にとって興味深い。 
しかし、私は世界各国の携帯電話のマナーがどんなものであるのか、知りません。 
どなたか教えてもらえませんか。 
私の予想………日本は世界で最も厳しいマナーが定着しそう。

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