75周年だっけ?という感じで、特に最初は思い入れはなかったんです。気づいたら75周年。私より社員の方が、なぜか75周年を盛り上げよう!という気持ちが高かったんです。ということで、周りのメンバーに任せたら楽しそうにやってくれて、制服を変えようとか、色んな相談を持ってきてくれました。
今は外部の方によくお声かけ頂き、1年かけて75周年をじわじわ実感しています。最初に改めて確認すべき『次の25年を、どういう面持ちで進んでいくのか』をクリアにした、良いイベントだと思います。
基本的には「全て、イエス」です(笑)。
少しずれていたら、条件付きの「イエス」になったりはするけどね。基本的にみんな『理念の理解』を、肌感覚として身につけてくれてると思います。「それは違うやろ」っていうことがないから、基本的に「イエス」です。
ニッシン初代社長
竹内正次
ニッシン2代目社長
竹内修
ニッシン現社長
竹内新
私以外の全員と思っています。感謝の対象は、ビジネスの観点で言うと、お客様ですし、社員、先輩方、社員のご家族、それから地域の方々です。ビジネスだけではなく、何らかの形でニッシンと関わる人達もそうです。
あとは改めて、ニッシン創業者のじぃちゃんに対する感謝、敬意があります。0からやって55年、最初の5年は本当に大変やったと思います。すでにあるものを伸ばすのと、0からは違いますから。2代目は私の父となり、それぞれの代でやってきた事に『感謝や敬意』そういう想いがありますね。
初代の祖父と私は60歳違い、干支が一緒なんです。私が生まれた時、同じ子年だから、祖父は「ワシの生まれ変わりや!」と言っていたそうです(笑)。そんなエピソードもあり、当時から祖父の『思想や考え』をずっと続けてきました。古き良き、昭和の戦後から高度経済成長の間を、一気に成り上がった人だったんだなぁと言う気がします。良い時代を、良い形で乗り切った人だな。という感じですね。
一方で2代目の私の父は社長を17年続け、50周年を迎えたり、ごろっと変わったこともしました。とんがった時代に、とんがった人が、とんがり続けたなと思いますね。
大変だったと思いますが、良いことと思ってましたので、大変そうと思ったことはないです。
私の時代は、代を継いでいく事業承継が世襲というんですかね、そんな時代ですから、生まれた瞬間から3代目になる宿命で、嫌と思った事はないですし、家業に近い感じです。生き様、生活、こうなるのが良いことだと思ってきたから、大変そうというより、(3代目を受け入れることが)大前提だった。
最初の10年はアメリカにいたので知らないんです。
ちなみに初代は、元々大手電機メーカーからの資金を得てサポートする為の会社としてニッシンをつくりました。
一方で、サポートとして受ける仕事だけではなく『自分達でもっと自由な仕事をしよう』と開始したのが2代目。「協力会社からの注文だけを受けるだけでは経営的にもリスクがあるし、もっと自分達がやりたいことを試してみたい。自由に仕事を楽しもう。」これが2代目の想いです。
2代目は「自分達の裁量でやりたい」と言っていました。自律のマインドを社内にも反映するようにしていたし、かなり言われた記憶があります。
ニッシン電機製作所という旧社名に対して、「電機が嫌だ。電機とかないもの。」というのが最初です。
嫌だは嫌いじゃなくて、電機に拘っていないというのが、真実です。電機だけではやっていけないし、電機じゃないからやらないとかあり得ない。取った結果、ニッシンだけが残りました。
25年後というのは想像や希望で言えるけど、わからないし嘘になっちゃう。75周年もそうですけど、若い方達がやりたいと思ったことが、やりたいように出来る。それが、出来るだけの時間や予算や環境を用意していけたらいいなと思います。
会社って家族も含めると、何百人が関わるフィールド。人生の中で少なくない時間を費やしてしまうはずなんです。それで、『つまんない』とか『やっていられない』なんて、本当に不幸なことだと思うんで。
会社にいる結果として、『充実している。幸せ。豊かさ。』をそれぞれ自分で感じられる集団だったら良いなと思います。「だからこの社名に変えるんです。こういう制度に変えるんです。この事業を始めるんです。」そういうのを自分達で作っていけると良いかなと。
本当にその通りです。
日々心掛けておかないと、言っても響かなかったり、一気に萎むんで。
いや〜75周年終わっちゃうのが、寂しいですね。
本当にやりきったなっていう。本当に皆様ありがとうございました。
75周年だっけ?という感じで、特に最初は思い入れはなかったんです。気づいたら75周年。私より社員の方が、なぜか75周年を盛り上げよう!という気持ちが高かったんです。ということで、周りのメンバーに任せたら楽しそうにやってくれて、制服を変えようとか、色んな相談を持ってきてくれました。
今は外部の方によくお声かけ頂き、1年かけて75周年をじわじわ実感しています。最初に改めて確認すべき『次の25年を、どういう面持ちで進んでいくのか』をクリアにした、良いイベントだと思います。
基本的には「全て、イエス」です(笑)。
少しずれていたら、条件付きの「イエス」になったりはするけどね。基本的にみんな『理念の理解』を、肌感覚として身につけてくれてると思います。「それは違うやろ」っていうことがないから、基本的に「イエス」です。
私以外の全員と思っています。感謝の対象は、ビジネスの観点で言うと、お客様ですし、社員、先輩方、社員のご家族、それから地域の方々です。ビジネスだけではなく、何らかの形でニッシンと関わる人達もそうです。
あとは改めて、ニッシン創業者のじぃちゃんに対する感謝、敬意があります。0からやって55年、最初の5年は本当に大変やったと思います。すでにあるものを伸ばすのと、0からは違いますから。2代目は私の父となり、それぞれの代でやってきた事に『感謝や敬意』そういう想いがありますね。
初代の祖父と私は60歳違い、干支が一緒なんです。私が生まれた時、同じ子年だから、祖父は「ワシの生まれ変わりや!」と言っていたそうです(笑)。そんなエピソードもあり、当時から祖父の『思想や考え』をずっと続けてきました。古き良き、昭和の戦後から高度経済成長の間を、一気に成り上がった人だったんだなぁと言う気がします。良い時代を、良い形で乗り切った人だな。という感じですね。
一方で2代目の私の父は社長を17年続け、50周年を迎えたり、ごろっと変わったこともしました。とんがった時代に、とんがった人が、とんがり続けたなと思いますね。
大変だったと思いますが、良いことと思ってましたので、大変そうと思ったことはないです。
私の時代は、代を継いでいく事業承継が世襲というんですかね、そんな時代ですから、生まれた瞬間から3代目になる宿命で、嫌と思った事はないですし、家業に近い感じです。生き様、生活、こうなるのが良いことだと思ってきたから、大変そうというより、(3代目を受け入れることが)大前提だった。
ニッシン初代社長
竹内正次
ニッシン2代目社長
竹内修
ニッシン現社長
竹内新
最初の10年はアメリカにいたので知らないんです。
ちなみに初代は、元々大手電機メーカーからの資金を得てサポートする為の会社としてニッシンをつくりました。
一方で、サポートとして受ける仕事だけではなく『自分達でもっと自由な仕事をしよう』と開始したのが2代目。「協力会社からの注文だけを受けるだけでは経営的にもリスクがあるし、もっと自分達がやりたいことを試してみたい。自由に仕事を楽しもう。」これが2代目の想いです。
2代目は「自分達の裁量でやりたい」と言っていました。自律のマインドを社内にも反映するようにしていたし、かなり言われた記憶があります。
ニッシン電機製作所という旧社名に対して、「電機が嫌だ。電機とかないもの。」というのが最初です。
嫌だは嫌いじゃなくて、電機に拘っていないというのが、真実です。電機だけではやっていけないし、電機じゃないからやらないとかあり得ない。取った結果、ニッシンだけが残りました。
25年後というのは想像や希望で言えるけど、わからないし嘘になっちゃう。75周年もそうですけど、若い方達がやりたいと思ったことが、やりたいように出来る。それが、出来るだけの時間や予算や環境を用意していけたらいいなと思います。
会社って家族も含めると、何百人が関わるフィールド。人生の中で少なくない時間を費やしてしまうはずなんです。それで、『つまんない』とか『やっていられない』なんて、本当に不幸なことだと思うんで。
会社にいる結果として、『充実している。幸せ。豊かさ。』をそれぞれ自分で感じられる集団だったら良いなと思います。「だからこの社名に変えるんです。こういう制度に変えるんです。この事業を始めるんです。」そういうのを自分達で作っていけると良いかなと。
本当にその通りです。
日々心掛けておかないと、言っても響かなかったり、一気に萎むんで。
いや〜75周年終わっちゃうのが、寂しいですね。
本当にやりきったなっていう。本当に皆様ありがとうございました。